nishiko
下関西高等学校 42期「天下会」





住吉神社 お花見会(4/7) への欠席者による

随筆集




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花見会


     【住吉神社お花見会】
日  時:平成24年4月7日(土)
場  所:神社右横の住吉公園の一角
参 加 費 :5,000円
集合時間:13:00(神社境内)
     参 加費徴収 (担当:清原さん)
     集 合写真撮影 (担当:村川さん)
     ③ 参拝(御祓い・御祈願)(担当:金澤さん)
一次会開催:13:30~16:00
     【二次会】
集合時間: 17:00
場所:居酒屋『海人』(新下関駅東口より徒歩3分)
参加費: 5000円(飲み放題無し)







出席者:

肥塚(向田)稔子
古金(兼 行)なほみ
豊田(森 川)澄子
錦織(羽仁)弘子
 新田和 子 
後田敏夫
大場 仁史
岡林祥司
片野静次
金川純平
金澤萬里 清原敏之 倉重二郎 小西和憲 近藤和男
砂川博史
田中  亨
田屋範和
坪島  皓
鳥居守人
永島俊三 早川  渉 原田和之 久岡基志 藤井康郎
藤本省輔 増井聡彦
増田満義
三浦重彦
南 暁
宮崎禎二
村川淳一
八木紀一郎
横川文夫
横塚邦彦
吉川順一




随筆
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著者
タイトル
ページ
1
吉崎眞琴
吾輩は猫である 1
2
森杉 馨 ご挨拶
2
3
西村尚武
我輩は転校生である、名前は勿論ある!
3
4
筒井 正
お天道さまは見てるよ 8
5
藤永吉久
個人年表
9
6
正路浩二郎
医者の不養生
10
7
野 田忠男
日 本銀 行政策委員会審議委員を卒業して 11
8
阪 本 清
金融界(銀行・証券)で活躍した友を偲んで
12





吉崎眞琴: 吾輩は猫である                           戻 る              

『前期高齢者』の皆さん

「吾輩は猫である」の吉崎です。 家庭の事情で残念ながら欠席します。 以下近況です。 60歳で定年を迎え東京・港区から千葉県の土気に転居し、昨年の震災当日にここ松戸市 の賃貸に移って人間一人と娘2匹(ネコ)で慎ましい年金生活を送っています。 娘二匹共に病気持ちのため遠出もままならず、毎日食って・娘の世話して・晩酌して 寝て起きての生活です。 この為子供三人と孫六人は関東に居を構えていますが一度も訪れたことがありません。 会社勤めの時は残業して・呑み屋に繰り出して・六本木や銀座で朝まで姉ちゃんたちと 大騒ぎをして・会社遅刻して、でもまた同じことして、の繰り返しと全く別人の生活で した。 このように書けば何とつまらない日々だと思われるでしょう。 ところがドッコイ!今は娘たちと毎日一緒にいるのが至上の極楽なのです。 子供・孫合わせて九人がみな男、初めての娘でクチャクチャと文句も言わず可愛いもの です。 娘たちに異常もなく元気だった日の終わりにゆったりと風呂に浸かったときは、 思わず『いや~極楽極楽』と叫んでいます。 住まいのすぐ傍に「日本の道百選」に選ばれている「さくら通り」があり、 昨年は震災で自粛中止でしたが、今年は今日明日と『さくら祭り』で2キロにわたって 屋台で賑わいます。 残念ながら数百本の桜にはまだ一輪の花も咲いていませんが、明日は屋台をハシゴして 皆さんよりお先に花見気分を味わいます。 みなさんも久々にお会いされた学友たちと大いに賑わってください。 みなさんがいつまでも健康であることを願っています。 ****************吉崎真琴**************** 270-2261 千葉県松戸市常盤平4-2-9 エクセレントプレイス常盤平110号 ℡:047-384-3672 携帯: 090-7194-3633 E-mail:nqg25807@nifty.com 携帯アドレス:kyuri-hikaru@docomo.ne.jp ****************************************
















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森杉 馨:  ご挨拶                            戻る               

下関西高同期の皆様,ご無沙汰しています。森杉 馨です。
小西さんのご命令により,4/7を欠席する代わりのご挨拶をさせていただきます。

西高を卒業して,7年間は京都に在住し,その後,和歌山大学教育学部に赴任して
40年たち,去る3月31日停年退職いたしました。好きなように過ごさせてもらった,居心地のいい40年でした。専門は数学で代数的位相幾何学という分野です。

さて, 高校卒業後の西高との関わりについて振り返ってみます。なお,敬称はあえて省かせていただきます。また,記憶間違いなどもあろうかと思いますが,ご容赦ください。

 1995年頃,当時,旭陵同窓会の関西支部の常任幹事を務めていた後田から連絡があり,今年の関西の西高同窓会の当番幹事が42期生だから,出席しろということでした。以来,何回か参加して,末光,八木を始め,何人かの同期の人にも会い,楽しい時間を過ごしました。現在の関西支部長の杉とは,小中高大のすべてで私の1年後輩でもあり,末光と同様,とてもお世話になりました。

2000年前後に,一度だけ下関の同期の同窓会に参加して,早川や金沢をはじめとして20人くらいの人たちと旧交を温めた。また,2次会では,大学卒業以来ずっとあっていなかった江良を呼び出して飲んだ。

前後関係は不明だが,同期の集まりの中から,吉川の電話番号を知り,2003/8/24 に東京ドームホテル1Fロビーであって,その後2人で飲みに行った,そこで彼から同期の人たちの種々の情報を得た。吉川とは,その後彼が関西にきたときの2007/11/24 夕方,関西在住の末光,八木とともに4人で飲んだ。
また,江良が拙宅に遊びに来ていたとき,岡山の正路と電話で話した。いつか忘れたが,岡山に出張した際に,彼と飲みに行った。

吉川のおかげで,2007年後半あたりから,メールの同報により,私のところにも,東京在住の同期の人たちの日々の状況が伝わるようになってきた。いちいちあげるときりがないのでやめておくが,高校時代に仲のよかった懐かしい名前もいっぱい出てきた。2009年には,この同報メールは,小西の尽力で,nishiko@rokuchan.netというmailing listになった。 私の大学では,割と早くから大学間networkとしてのinternetが使えた。internetの歴史をみると,小西某という人の先駆性と多大なご尽力が大いに寄与したとの文章を何処かで見た。その後,その小西某が,西高の同期の小西であることを知った。世界でも著名なinternet先駆者が,我が西高のinternetの管理をしてくれているのである。多大に感謝である。

その,rokuchan.netをROM(read oly)していて,東京の同期の同窓会の実質的な中心は実は吉川ではなく金川純平であることを知っていた。しかし,金川のことは高校時代も含めて全く何も思い出せなかった。正路の東京での羽目外しぶりもrokuchan.netに何回かのっていた,しかし,私が岡山で一緒に飲んだときにはそんなそぶりは全く見せなかった。

今年の3/27に私が小西からmailをもらい,その返信に,いまたまたま東京にいること, 明日までいること, ついでに携帯電話番号を書いておいた,すると,その晩,金川から電話があり,3/28に会おうということになった。金川ってすごい organizer だなと思う,だって,一面識もなく,どんな人間かもわからない私に,(もちろん他にも数人に声をかけてくれていたのだが),門前仲町で落ち合って飲みにいこうと誘ってくれたのだから。そこで,驚いたことに and うれしいことに,当初の2人のみではなく総勢10人が集まった。ひとえに,金川と小西のrokuchan.netのおかげある。みんな集まるきっかけを待っていたのだ。本当に楽しいときを過ごさせていただいた。

最後に,桜見のご盛況,皆さまのご健康とご多幸をお祈りして,皆様への挨拶とさせていただきます。

また機会があれば,今度は馳せ参じます。


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森杉 馨
大阪府和泉市いぶき野一丁目8-11
TEL&FAX 0725-56-7486
携帯=080-5308-4191



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西村尚武: 我輩は転校生である、名前は勿論ある! 戻る 

 我輩は猫ではない、ノンポリ「転校生」である。 往時世は学園闘争も盛りなり、デモクラシー何を担ぐかワッショイワッショイ。 未だ逮捕歴も無く、至って世間に迎合的であるが故に我輩は生き延びられた。 小学以来一度や二度の転校では無い、筋金入りの猛者なのである。 未だ多くを語ろうとはしない「転校生談義」を詳らかにしたいと思う。   東風(こち)吹かば思い起こせよ下関西友との語らい吾拠り所  前地岡山にはそれは壮大な旧練兵場跡があった、軍靴の轟が凍み込んでいる。 広大な敷地に警察学校、機動隊、野球場、体育館、病院などが居並ぶのである。 そこでの私の高校生活は県民性もあるのかそれは自由なスタートに見えた。 だが教育には関心の高いという土地柄故に、毎年中学浪人100名位が 通塾し勉学に励んでいる風景には些か驚いた。 親子や周囲の関係者に留年する事に卑屈感は余り観られなかった。 昔の旧制中学時代の風潮錯誤か、妙な伝統的な息吹がそこにはあったのかもしれない。 ここでの1年間は遠回りではなく、最終学府へのむしろ至近距離と考える術策なのか。 めでたく難関突破し長髪で「角帽」を被っての雄姿は、一見「岡大生」に見違える 老けた奴もいた。確実にクラスに男女3~4名は居たが、普通の情景だった。  そんな事もあり中学生模試は一大教育マーケットだった。県下で何千人もの中学生や OBが各試験会場を毎月埋めるのだから凄い。福武書店(現ベネッセ)は通信教育や 模試のフロンティアであるが、ここでの成績発表上位者は県下で名を馳せていた。 校風に慣れた頃、早慶選ならぬ「操朝選」(操山ー朝日)が高校両雄で繰り広げられる のだが実に大学生活もどきの早取りであった。だが甲子園には程遠かった。  通学途中にある「後楽園」や「岡山城」「旭川」、往時の姿が眼に焼き付いて いるが、ボート部の同僚が夏の大会に向けハチマキ姿で頑張っていた。 そうだ、何だか「坊ちゃん」の情景とダブってきたぞ。 そして我輩は弓道部ラジオ部茶道部のトリプル部活動が始まった。 振り返ればよくもま~時間があったもんだ。だが興味旺盛という性格なるが故に 人付き合いの秘訣を探る事となり、転校生としての素地を熟成したのかも。 彼の地は「マスカット」「白桃」「二十世紀梨」でも有名であるが「吉備団子」も 外すことは出来まい。百間川なる支流の川端を冬のマラソン大会で走ったが 完全にビリとなった、関節炎をおして走ったのは真にまずかった。 事情の判らない同級生や上級生の女子達が校門で拍手をしながら待っている。 こりゃえらい事になったぞ、恥ずかしさだけが脳裏を駆け巡った。 アホだな我輩も、ゴール前100メートルを全力疾走し、そして照れ笑いを。 だが怪我の功名、茶道部のマドンナが楚々と麦茶を差し出してくれたのだ。  当時田園風景だった走路近辺に正路浩二郎君邸があるのだが、奇妙な縁である。 奇しくも息子さんたちも我輩と同じ高校に通っているのだ。今では中高一貫校に なっている様だが、同じ息吹を感じて成長してると思うだけで胸が熱くなる。 短い1年では校歌は完全に覚えてない、西高の校歌は完全に唱することが出来るのに。  岡山駅前の繁華街にはいくつもの映画館があったのだが良く通った。 大半が木下興行(現木下サーカス)であり、そこの「通年無料パス」が我が家には 2枚もあったから洋画・邦画の見放題であった。 往時は「鼻薬」として彼ら興行主が官憲や関係者に配るのが慣わしの様であった。 そうだ関係者姻戚の息子木下君も在学生で剣道部だった様な記憶がある? 大石という名も多く、柔道部で同名の彼は岡山出身だったのではと思っている。  教育県である岡山は派閥抗争が多く、親父殿は検事であったので、なぜか 仲良くしてもらえた悪友もあちこちにいた。おかげで「レース鳩」を飼う羽目に なるのだが、当時「血統書」付きのレース勝鳩の産子は高く売れたのだ! ビジネスも好調の11月下旬、目を覚まし鳩舎に行くと鳩が一羽もいない。 やられた、「鳩ドロボウ」である。がっくりとうな垂れて過すこと一ヶ月、 犯人が逮捕されたが19歳の少年で明石少年院に送られた。 だが証拠隠滅のため脚輪が切られ鳩は殺処分されたりで哀れな結末となった。 寂しく正月を迎えたが、「春に異動があるぞ!」と親父殿。 下関か、広島なのか、はたまた東京か。「あ~あ、我輩又も転校か!」  てなことで転校先の高校を見聞し、授業や履修科目の情報収集に奔走。 だが都合良くは行かない、各校バラバラで、特に下関西高は科目進度が速かった。 編入試験は受かったのだが暫しの間心が揺れた。岡山で下宿生活をするか、 将来を考えて東京にするか、それとも親元で下関かと。 実は必須条件がもう一つあった、「坊主頭」でないことだけは譲れなかった。 教科書・制服・定期などを買い揃えられた頃にやっと中途編入となった。 集文堂には随分と通い、教科書代わりに「虎の巻」を購入したものだ。 「リ・リ・リ・リ~ン」けたたましく目覚ましが鳴る。 長府侍町の朝は実に静か、鳥のさえずりが、後で判るが「鷽」(ウソ)である。 さて本日より下関西高校へ通学である、だが実によく雨が降るところである。 電車通学なのだが豊浦高校の前なので降りる生徒も多い。 乗ると電車内は早鞆・梅光・下商生等さまざま、雨で濡れたズボンの気持ち悪さよ。 唐戸に着くと電車はスイッチバックで東駅に向かう、通学生の利便を図っているのか。 東駅で降りると一斉に同方向へ学生が向かう、そうか下商も同じ坂道なんだ。  西高で記憶に残る事は数々あるが、パン嫌いな我輩はなぜか満足な食堂でした。 ベルが鳴り終業となると一斉に廊下を駆ける者あり、息を切らして顔を見合す。 満足げに「うどん定食券」を手にしている藤垣順三君、坪田邦夫君、橋本洋君。 君達はなぜかくも瞬発力があったのですか? おかげで仲良く成れたんだよね。 そんな風景が余程可笑しかったのか食堂のお姉さんからも仲良くして貰えた。
 そんな縁もあり坪田君在籍の「演劇部」に入部、そこで村川淳一さんや則松襄志君と 出会うのである。又隣室の「新聞部」「文藝部」には渡辺謙さんや保良さんが居たっけかな。 保良さんの事は親父殿から色々聞いていたのだが、真面目な人で驚いた。 大分学校に慣れてきた頃、関節炎の古傷が疼いて来た。どうやら湿気と寒さが災い していると長府病院での診立てであった。学校へ診断書を提出しバイク通学を許可して 貰うと、ここで新たにバイク友達群が増えたのである。 藤垣順三君、松下叶君、田代幸彦君、早川渉君、岡本宏人君(故人)、藤井侃君が 吾人名録に加筆されたのである。バイクとは実に機動的である、ここから我輩の アクティブな友人交流が広まっていくのである。



  実力考査の試験があったが参った、困った。世界史も日本史も履修していないし 教科書が無い。微分積分も未就学であったので解ける訳が無い。 脳天気な我輩も落ち込んだぞ、中学程度の歴史観で問題回答はちと無理があった。 担任に相談をしている頃に相前後して、南暁さんの姿を廊下で見掛けた。 彼も違う苦労で面談していたのをつい先日飲み会で知る事となった。 な~んだ、彼も悩んで大きくなったのか!  そうこうしていると夏が来た、ここで釣り三昧が始まるのだ。下関は素晴らしい、
みもすそ川、唐戸岸壁、彦島、綾羅木と釣り場に恵まれている。 16歳で軽免許を取得していたから足には事欠かない。 アジ、サバ、いさき、カレイ、アイナメ、スズキ、シロギス、よく釣れました。 そんな時、海男の中村澄男君と仲良くなりちょくちょく遊びに来てくれたものだ。
 夏休みは長い、勉強をしない我輩には時間が無尽蔵。細江方面への歓楽街探訪が 始まった。下関OSで映画を観て、後田敏夫君の店でパチンコ三昧。 「お~い、球出ね~ぞ、オヤジ!」と粋がってみせる。後田君の親父が出てきて、 「あんた、西高生やろが?」と嗜められる。聞かぬ振りしてチンジャラ、チンジャラ。 そのうち変なのが近付いて来た、石川佳則君(故人)だ。「おい、出とるか?」 「おお、お前誰か、何組か?」などと話が終わると負けて帰って行った。 帰りに儲けた金で冷前勲君の店でリコー社製自動巻き時計を買い、悠然と帰宅する。 片野清次君の精肉店は大流り、だが彼は恐持てだからパスした。  夏休みも終わりごろ、竹崎のパチンコ屋で打っているとお声が掛かった。 どう観ても悪ガキが4人、「おい、こっちへ来いや!」と大丸裏の岸壁へ。 ピンと来た、石川の指図だなと。一人は「バカ盛り」の息子豊川、そしてもう一人は 安川、そしてその他。出入りに時間は掛からなかったが腹の虫が治まらん。 後日「バカ盛り」に飲みがてらお礼参りした。奴は大人しく、「ホルモン」と 「ホッピー」を持ってきて、モゴモゴ何か諳んじていた。2杯ほど飲んで 「又来るな!」と言うと、「有難うございました」と丁重に送ってくれました。 後で親父とオカンが心配そうに見ていたが、気配を感じたのかもしらん。 だがこの飲酒が知れる所になり、先生には迷惑を掛けてしまった。 だがそれ以来石川君とは仲良くなり、関西町の家には入り浸って蒲鉾をよく食った。    秋近くになると無性に本が読みたくなったのは何故なんだろう。集文堂帰りに 山田和夫さん宅へ寄らせてもらったが、彼随分と本好きであった。 山田風太郎の「くのいち」は彼のお気に入りシリーズで、おいお前高校生だろう? 何回会っても飄々としたあの風貌は少しも変わっていないな~。  二学期が始まりそろそろ進路を決めなくてはならないが、「理科系」を選択した。 だが履修科目が足りない我輩は国立は無理、私立と言えども数Ⅲがネックだし・・。 あ~、中途半端な進路選択をしてしまった。「文科系」にしておけば良かったものを。 漫然と月日は過ぎ去り三学年に進級したが、次の一年間のまっこと早かった事! まるで駆けつけ一杯目のビールと同じ、あっという間に底が見えた。



  桜が咲く頃、受験生からいろいろと朗報が届く。だが「桜散る!」も聞こえる。 我輩がノホホンと私学に入りノンビリしていると三浦重彦君上京する。 「代ゼミ」で再チャレンジの様で練馬に下宿する事となった。その頃西高生は 赤穂浪士の様に続々と練馬に結集し始めた。新見清利君、中村澄男君、石川佳則君(故人) 職場はと言うと、池袋の「大戸屋」なる安サービス定食屋である。ここに群がる者 甚だ多し、今では立派に成られました吉川順一君は筆頭(失礼)。 みんな「おにぎり」のお土産をじっと待っていたんだってね、ひもじくて・・・。 いや~、実に涙ぐましい話であります。  晩年縁あって再会した仲間も多士済々、親分然とした小西和憲さん、 温和な近藤和男さん、眉目秀麗増田満義卓球オヤジ、女性開眼した○○さん、 みんな違って、みんないい味! 何だか金子みすずフレーズかいな!  あれから半世紀経ちました、みんな顔に夫々の勲章を着けて登場するのか! いいな~、 「高齢者の集い、桜の園で本日開催さる」 下関日報より    「花も嵐も踏み越えて、行くが~男の生きる道!」ぞ、純平! 「おい大分酔って来たの、もう一杯で止めぞ純平!」 「ママ~帰るぞ、お勘定、早よせんか純平、ドアホ!」 《 完 》



















































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筒井 正:  お天道さまは見てるよ     戻る 

                     小西さんへ お気遣い 恐れ入ります
一の宮 皆さんで 楽しいひとときを お過ごし下さい
私は向山小学校の時 遠足で一の宮に行きました 若い30代後半頃 コニカ(現コニカ・ミノルタ)で 親しくなった当時の開発研究担当の役員との間で 私が下関出身だと話したら  その役員から コニカ さくらフィルム等 中興の祖の 西村さんが下関出身で  西村さんより一の宮 一の宮 と聞かされた旨 言われ問われ
私は 山口弁で 言う ぶち広い 8クラス 400人超が
弁当を食べ 走り回った記憶があります  大坪八幡さんが小学校の近くにあり我が家も氏子でしたが 校門を真直ぐ進み 突き当りを左に曲がると 境内に入れます とても楽です
ところが 親や先生は JR踏切前の下から 100段か200段か 解りませんが 下から歩いて そうしなければ ご利益はない 嘘をついても 間違った事をしても 『お天道さまは見てるよ』 の一言で お互い通じ合う等 話し合いました その後 研究 開発部門へ 私は出入り自由 となりましたが
今 木島佳苗 練炭殺害 本当は どうなのでしょう 100日裁判 証拠はない 『お天道さまが見てるよ』が身に浸みておれば 事件も起きなかったでしょうし  素直に 申し訳ありませんでした と なりますよね このような世界にしたいですね
本当は 下関に行きたいが タバコなしでは とても我慢が出来ません 無理です   それが欠席の理由です (女房の前では辛いけど禁煙 故に毎日喫茶店に行きプカプカ  これは内緒 『お天道さまは見てるよ』 言う資格は ありませんね) おちも この辺で!!!!!
皆さんに宜しくお伝え下さい
                        筒井















  - 8 -

藤永吉久: 個人年表                     戻る  

小西 さん、 

世話になっている小西さんの命令に従います。 随筆なんて書けないので、恥ずかしながら西高卒業から現在までの個人年表を作りました。



























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正路浩二郎: 医者の不養生             戻る

小西 和憲 先生

ご無沙汰してます。昨日の春の嵐、そちらは大丈夫でしたか? こちらは和気町24m、岡山市33mとこれまでに経験したことがない強風でした。 昨夜は宿直で不在のため我が家のことが心配です。 遅くなりましたが欠席のお詫び文です。

欠席のお詫び・医者の不養生 住吉神社のサクラは3月31日が開花と聞きましたから、当日はきっと満開でしょう。 花見会の盛会をお祈りいたします。西高の同期がいつもの2倍も集まるのですから、 東京同期会の結束力の強さを感じます。 近況報告をいたします。

私ごとですが1月頃から不整脈が頻繁に出るようになり薬を飲み始めました。 小渕総理、長嶋監督、オシム監督、大山のぶ代といえば不整脈・心房細動により
脳梗塞・心原性脳塞栓症で倒れた方々ですが、同じ不整脈です。 従って不整脈とともに脳の方も心配の種となり始めました。 1月28日に新年会があって生ビール 2, 3杯と冷酒を少々飲みました。 深酒ではありませんが、翌日もっと動悸の激しい不整脈が起こりました。  ハートクリニックを救急受診し、抗不整脈薬を静注してもらいましたがとれません。 電気ショックをかけますか、根本的には焼かない(火葬?) と治りませんと怖いこと ばかりいわれてガックリときました。 この時は患者様の気持ちが痛いほどよく分りました。 最後の頼みに私流のやり方をお願いして何とか不整脈はとれました。(迷医?) アルコールが原因と考えられ、以後禁酒、晩酌はノンアルコールビールにして 寝酒も我慢しました。 3週間後に医局の新年会がありアルコール解禁してみたところ、やはり翌日には不整脈が 起こりました。 現在では晩酌はダイエット350ml、アルコール換算12gで我慢しています。 不幸は重なるもので3月1日に母親が脳出血で倒れ入院、未だに意識がはっきりしません。 10日後には義母が足を骨折して入院、96才の義父の介護のため嫁は実家に戻ってしまい ました。週末は広島の母に会いに行っていますが、今日でもう3週間も独身生活です。 仕事はまだ現役です。 毎朝6時に起きて、29kmの道を50分かけてマイカー通勤、週5日余り働いて、月3回は当直も こなしています。病院はサービス業、医者は肉体労働者です。 私は見かけによらず中身はもうボロボロなんです。 ということで、今回は花見会には参加出来ませんでした。
随筆など書いたことなく、これでは酒の肴になりませんがご勘弁下さい。 皆さま、当日は決して無理されないで自制してサクラ、酒を嗜んでください。
H24/4/4  正路 












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野田忠男: 日本銀行政策委員会審議委員を卒業して    戻る

小西さん
 「下関西高6チャンネル」には、最近の講演録を投稿してはどうかと思案しておりましたが、忙しさに取り紛れ草稿のデジタル化が間に合いませんでした。
 日本銀行政策委員会審議委員時代の5年間は、延べ70回を超える金融政策決定会合における発言原稿や10数回の経済講演の草稿起こしに身を削ったものです。学者でも物書きでもない小生にとっては大いなる苦痛の連続でした。退任後はその 苦役から解放されたものの、ゴルフのパットにおけるなんとか病に似て、PCの前では指がスムースに動かなくなる感覚に襲われるといった体たらくです。
 そんなわけで安直な対応となってまことに恥ずかしいのですが、小生の卒業後の状況報告に代えて、東洋経済新報社系の『経済倶楽部』の会誌に昨年12月に不承不承寄稿した随筆をお送りします。関西弁で「不細工なこっちゃけど」、この極まりないズボラをご容赦ください。
 今回の「花見同期会」には参加が叶いませんが、3年後の卒業50周年まで、再度、再々度の開催を期待しています。皆さんにくれぐれも宜しくお伝えください。
野田忠男拝


 
 

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阪本 清: 金融界(銀行・証券)で活躍した友を偲んで    戻る

春もやや けしきととのふ 月と梅 (芭蕉)

欧州ソブリン危機の行く末も春霞の中に紛れているようだが、天には朧月、地には馥郁 たる梅の香り。四月には旧友達が集い故郷で観桜会。桜をこよなく愛した君の姿はない。 リーマン・ショックの余波は未だ収まらず、世界の主要国は一斉に財政出動して金融危 機の終息へ躍起となり、その過程で数百兆円の「銀行券、国債、etc」を大増発・・・ そしてこれを新たな金融危機の萌芽にしない為の施策は甚だ心許ない。 大石先生の講義「800年前に世界で最初の紙幣(元帝国の「宝鈔」)が出現して以来、 大増発の結果、悪性のインフレを惹起して無残な姿になった通貨は枚挙に暇ない」 を思い出しながら欧州の危機報道に接すると、 バンク・オブ・イングランド(英国中央銀行)、バンク・ド・フランス(仏国中央銀行) 、ブリュッセルEU本部を訪問した日々を思い出す。 ユーロスターが英仏海峡を横断してロンドン~パリ間を結んだ頃、英国電子マネー実験 状況の視察と英国・仏国・EU金融当局の電子マネー取組み方針の聴取が訪問目的 だった。 当時石油会社の情報システム部長で、数百万枚の石油クレジットカードを処理する 子会社の役員も兼務しており、日本の各種業界参加の欧州視察団の一員に加わった。 帰国後、友と会食しながら英国や欧州の事柄を話し合い(友は若いころ銀行から英国 留学を命ぜられ、英国事情に精通)楽しい時を過ごした。 今日はその時の話題の一つ「ロスチャイルドの柱と彼の見えざる資産」について書こう。 フランクフルトで マイヤー・アムシェル(27歳)とグトレ・シュナッパー(17歳) が結婚したのは1770年。ベルネ広場に面するユダヤ記念館の付近は、かっては町外れ で城壁と堀に囲まれた半月形の狭い区域の一角が彼等の新婚の住まいだった。 二人は5男5女に恵まれ(長男のアムシェル・マイヤーはフランクフルト・ロスチャイル ド銀行の祖)三男のナータン・マイヤーは、1798年に、父の命令でイギリスへ渡った ナータンが渡英した時は21歳。英語はまるきり出来ない青年であった。 半年ばかり父の商売仲間であるロンドン商人のもとで見習いをしてからマンチェスターに 居を移した。当時マンチェスターは世界一の織物の町。 ここで「ナータン・マイヤー・ロートシルト」はネイサン・メイアー・ロスチャイルドと 英国風に名乗り、彼の名刺には、N.M.Rothschildと書かれた。 そしてこの名は銀行を設立した時にも踏襲された。かのロスチャイルド銀行(ロンドン) である。 当時マンチェスターの人口は約9万人。植民地インドからの木綿を原料に製造された織物 はヨーロッパ各地に送られ活況を呈した。その後20年で、人口が30万人に急膨張して いることから、ネイサン活躍の舞台が偲ばれる。 ネイサンが、父から預かった資金は2万ポンド。ロスチャイルド商会はこの資金で買った 織物をフランクフルトの店に送るほか、販路を広げ、アムステルダム、ジュネーブ、ハン ブルク、パリ、モスクワへも届けた。 やがてナポレオンが「大陸封鎖」強化策を実行。イギリスの国力弱体化のため、全欧州の 港からイギリス製品の陸揚げが禁止される。マンチェスターには失業者が溢れ放火も多発 する。 ネイサンは封鎖強化をいち早く察知してロンドンへ移転。大陸の一族と緊密な連絡を取り 「情報力」に勝るネイサンならではの「素早い行動」だった。 ロンドンの新住所はシティの三階建ての屋敷で、王立証券取引所にもイングランド銀行に も近い好立地。New Court, St.Swithin's Lane 現在のロスチャイルド銀行の住所だ。 ロンドンで証券取引業務を始めたネイサンは5年間で資産を2500倍に増やしたと言わ れている。 ネイサンが巨額の利益を得てロスチャイルド財閥の礎を築いた所謂「ネイサンの逆売り」 を辿って見よう。この逆売りは、誠に教訓と示唆に富む話である。 1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島を脱出。3月20日パリ入城、皇帝に復位。 当時世界経済の中心であった英国の株式市場は固唾を呑んで状況の推移を見守った。 ナポレオンが再び大陸を席捲するや否や、コンソル公債(年3%の利子を永久支払) と株式価格は大暴落するのか・・etc ナポレオンの基本戦略は、ウエリントン公爵率いるイギリス・オランダ軍とブリュッ ヒャー元帥率いるプロイセン・ザクセン軍を分断して各個撃破し、その後、東方から 進撃して来るロシア・オーストリア軍を迎え撃つものである。   連合軍総司令官のウエリントン公爵の戦略は、指揮下9万3千人の英蘭軍とブリュッ ヒャー元帥の11万6千人のプロイセン・ザクセン軍でナポレオン軍12万4千人を 挟撃して撃破するものであった。 1815年6月15日にフランス軍は国境を越えシャルルロワでプロイセン軍の先遣 部隊を撃破した。この結果、フランス軍はウエリントン軍とブリュッヒャー軍の 中間に割込む事に成功し、戦略的優位に立った。 6月16日、ネー元帥のフランス軍はカートル・プラを攻撃し、ナポレオン指揮の フランス軍は、リニーの戦いでブリュッヒャー軍を退却させた。 ワーテルローに司令部を置き連合軍を指揮するウエリントン公爵は、勝利か敗北か ・・・ロンドンは知らない。 一方、大陸のロスチャイルド一族は、情報網を確立・常備し活用していた。 伝書鳩、馬車、飛脚、船、急送伝令を配備して、6月18日の決戦結果を6月20 日の未明にはネイサンのもとに届けている。 これはウエリントン公爵の公式情報よりも40時間以上早く、タイムズ紙の報道より 2日早い。ネイサンはこの情報をすぐに外務大臣カスレイル卿に届けたが彼は信じ ない。 そこでネイサンはカスレイル卿邸を辞し取引所に直行、指定席・ロスチャイルドの柱に 寄り掛かり、コンソル公債の相場を張った。 世上喧伝されている「ネイサンの逆売り」はネイサンが「ウエリントン軍敗北の報を得た かの様子でコンソル公債を売り始め」、それを見た取引所は、皆が売り一色になり、公債 は大暴落した。ネイサンは喧騒の中で買い方に廻り、暴落した公債の大部分を手に入れた。 やがてナポレオン敗北の報が取引所に伝わり人々はネイサンにしてやられた事に気付い た。   私は、「取引所の描写」が上記であっても、それは、氷山の一角であり、そこに至る周到 なネイサンの作戦を読み取るべきだと思う。 機会を得てロンドン~パリ~ブリッセル~ワーテルローを訪れて、現場に立ち、私が 推理した「ネイサンの逆売りを逆に辿れ」では ネイサンが勝利の情報で「逆売り」したのは「コンソル公債」だけではない。 ネイサンは、フランを売ってポンドを買い双方の取引で莫大な利益を上げている。 更に、反ナポレオン大陸諸国の「公債」を底値で集め、高く売却して、これでも大儲け した。 それでは、なぜ人々は「逆売り」に騙されたのか? ネイサンが今なお「伝説」の主人公として語り継がれているのは、情報戦略に優れて いたからではないか。そして、利益の極大化を可能にしたのは「心理戦」に長けて いたからではないか。 このことは「柱」を離れて、時間の流れを逆に辿ると次第に見えてくる。 そして現在の株式市場でも散見される教訓と、巧妙に仕掛けられた罠の存在も浮かび 上って来る。 ネイサンは証券取引所にその姿を現す前に外務卿邸を訪れ「勝利」を伝えた。 なぜカスレイル卿は信じなかったのか? そもそも、なぜ寄り道をして外務卿に会ったのか? 外務卿(外務大臣)は、ワーテルロー前日の「カートル・プラの戦い」にイギリス軍が 敗北したとの報に接したばかりであり、取引所の相場も「カートル・プラ」の敗戦 ショックで既に下落していたのである。 早耳ネイサンの伝説は、ナポレオン戦争の期間中に度々証明されており、ネイサンの 一挙手・一投足は常に注目されていた。 ネイサンが外務卿邸に入ったという知らせも当然の事ながら直ぐに取引所に伝わる。 「敗戦ショック」の下落相場に、ネイサンが追討ちを掛けて売りまくれば、取引所の人々 は「ネイサンは、きっとワーテルローでも負けたという情報を入手しているに違いない」 と信じてパニックに陥る。 つまりネイサンは、緻密な行動、正確な時間差、人々の思込み、心理的動揺を計算した 上で「逆売り」を行ったのである。 次に、ネイサン・ロスチャイルド成功の源泉である「見えざる資産」と、その由来に ついて辿ってみよう。(企業の見えざる資産=貸借対照表で見えない資産、個人の見え ざる資産=財産目録表に載らない資産) ネイサンが英国に上陸した1798年は、ナポレオンがエジプトに遠征し、英国とインド の連絡を断ち、英国を屈服させようとした年である。 ネイサンを英国に派遣した父(マイヤー・アムシェル)は2万ポンドと一緒に見えざる 資産(ノウハウとスキル)を持たせて送り出している事が浮かび上がって来る。 父は、ハノーバーのオッペンハイム銀行に見習いで入り、やがて独立して両替商「ロスチ ャイルド商会」を開いた。26歳の時、フランクフルトの領主であるヘッセン侯の皇太子 に金貨を売った事が切っ掛けで御用商人となった。 往時、ドイツは230もの小国に分かれ、さらに50余の自由都市があった。自由都市の 「自由」は財政も都市が自由にするという意味があり、それぞれが通貨を発行していた。 商都フランクフルトは、つまりは両替都市であって、広くヨーロッパ全体の何百もの通貨 がここに集まり、必要に応じて両替される。貨幣は単位以上に金・銀の純度と流通価値が ものをいう。 両替商は一つ一つの通貨の価値だけでなく、その時点の交換価値や発行元の国情に通じて いなくてはならない。そして将来の変動を予測し、下落の兆しがあれば手離し上昇の匂い をかぎつければ金庫に収蔵しておく。このノウハウとスキルは公債や株式の取引に生かさ れる。   「ロスチャイルドの柱」の背景には、彼の父と兄弟たちの見えざる資産の蓄積があった 事も忘れてはなるまい。 最後に、友の詠んだ俳句「散る桜 残る桜も 散る桜」を記して名残としよう。














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